日本酒っていつから造られたの?歴史に詳しく迫ってみた!
普段何気なく口にしている日本酒ですが、実はとても深い歴史があることをご存知でしょうか?
長い歴史を辿れば、日本酒の魅力をもっと感じることができますよ。
今回は、日本酒の歴史はもちろん、千葉で作られている日本酒の歴史についても迫っていきます!
【縄文時代】お酒造りが始まった
縄文時代中期から、お酒を造っていた痕跡は見つかっています。
ただ、お米で造った日本酒ではなく、当時はヤマブドウなどの果実を原料とした果実酒を造っていたようです。
3世紀頃に書かれた『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』では、縄文時代から弥生時代にお酒を飲んでいたことが書かれています。
「死者がでると、喪主は10日あまり喪にふくし、他人は喪に参じて詠い舞い、飲酒をする」とあり、今と同じように人生の節目にはお酒を飲んでいたことが分かりますね。
【奈良時代】最古の日本酒が造られていた
日本酒の起源は「口噛み酒」
穀物を原料としたお酒造りは、今から2600年ほど前に中国から伝わったとされています。
奈良時代の書物では、大ヒット映画「君の名は。」でも話題になった「口噛み酒」が造られていたと書かれています。
口噛み酒とは、雑穀などのでんぷんを含んだ植物を口で噛み、つぼの中に吐き出して造るお酒のことです。
唾液に含まれる「でんぷん分解酵素」により、アルコール発酵が行われてお酒になります。
麹菌を発酵させた
お酒造りもしていた
奈良時代の書物に、「神棚にお供えしたご飯が雨に濡れてカビが生えたので、お酒を醸して神に捧げた」との記述があります。
人工的に発酵させる「口噛み酒」だけではなく、自然発酵を利用した日本酒造りも行われていたのです。
また、8世紀ごろに成立したと言われる『万葉集』では、家でも麹を使った日本酒造りを行っていたことが書かれています。
【平安時代】宮廷や寺院で日本酒が造られていた
宮廷にお酒造りの専門機関があった
奈良時代には、朝廷に「酒部(さかべ)」と呼ばれるお酒造りの専門機関がありました。
平安時代には「造酒司(さけのつかさ)」と名前を変えていたようです。
当時の日本酒は、
- 御酒槽(ごしゅそう):天皇や地位の高い人が飲むお酒
- 雑給酒(ざっきゅうしゅ):下級の役人が飲むお酒
- 白酒(しろき)・黒酒(くろき):お祭り用のお酒
- 釈奠料(せきてんりょう):孔子と弟子を祀る時に使うお酒
と、大きく4種類に分けられていたようです。
寺院で僧坊酒(そうぼうしゅ)が
造られた
平安時代では寺院でのお酒造りも始まりました。
お酒を禁止しているイメージの強い僧侶ですが、実は建前だけのものだったそう。
明治時代になるまで、仏教は神道とはっきり区別されていなく、神社の中にお寺が併設されている…なんてこともありました。
このため、寺院では、神道の神様にお供えするお酒造りが行われており、僧侶の飲酒は一般的だったそうです。
僧坊酒(そうぼうしゅ)と呼ばれるこのお酒は、室町時代から平安時代にかけて日本酒の中心になっていきます。
【鎌倉時代】初めて日本酒が販売される
平安時代末期から鎌倉時代の間で、京都を中心に僧坊酒を販売するお酒屋が誕生しました。
これは、お寺の財政確保のために販売が始まったと言われています。
鎌倉時代には、武士たちが日本酒を購入し、宴を開くこともよくあったようです。
しかし、鎌倉時代の中頃、お酒の売り買いを禁止する「古酒禁令(こしゅきんれい)」が幕府からだされました。
「酔っ払いによる殺傷事件が頻繁に起こった」「全国で大飢饉に見舞われた」など、様々な諸説があるようですが、はっきりとした理由は分かっていません。
ただ、しばらく経った後、酒税の徴収が始まっているので、禁酒令はその後廃止されたと考えられています。
【室町時代】僧坊酒が広まる
有名人も愛したお酒
たくさんの寺院で僧坊酒が造られていましたが、中でも評価が高かったのが、大阪で造られていた「天野酒(あまのざけ)」と奈良で造られていた「菩提泉(ぼだいせん)」です。
天野酒は、豊臣秀吉が愛したと言われている、日本酒度が-90から-100と言われるとても濃厚な甘口のお酒でした。
彼は、天野酒を造っている寺院に、わざわざ良い酒造りに励むよう命令したとの話も残っています。
一方、菩提泉は、足利義政に「天下の銘酒」とまで言わしめた日本酒です。
菩提泉の酒造方法は、今も日本酒造りに使われる「生酛(きもと)」の原点となっています。
僧坊酒は現代の日本酒造りの
基盤となった造り方
当時から、日本酒を造る方法として、
- しおり方式:水の代わりに薄いお酒を入れて造る
- 酪(とう)方式:お米を複数回に分けて投入することで発酵力を持続させる
の2種類がありました。
僧坊酒は、とう方式で造られており、これは日本酒造りの基本「三段仕込み」の基盤になったと言われています。
【室町時代後期〜安土桃山時代】日本酒造りの基盤である「諸白(もろはく)」が生まれる
南部諸白(なんぶもろはく)が
生まれた
室町時代後期には、寺院によるお酒造りが盛り上がり、今の日本酒造りにおいて根っことなる技術が確立されました。
その技術の1つに「諸白(もろはく)」があります。
諸白とは、麹米と掛米の両方に白米を使ったお酒です。
一方、麹米だけに玄米を使ったお酒は「片白」と呼ばれていました。
現在は諸伯での造り方が当たり前に使われていますが、室町時代までは精米が困難だったために片白が普及していたようです。
当時、奈良県は「南部」と称されていたので、奈良県から広まった諸白は、「南部諸白」として親しまれていました。
地方に南部諸白の技術が広まる
全て精米したお米を使う諸白は、片白よりもすっきりとした味わいをしており、瞬く間に人気となりました。
戦国時代後期、寺院の力が衰退して僧坊酒も減ってしまいますが、奈良や京都に近い地方では諸白造りの技術が継承されていったのです。
実は、1592年に行われた朝鮮出兵も、諸白技術が伝わった要因と言われています。
海軍をねぎらうものとして選ばれたお酒の中で、南部諸白だけが長期間の輸送に耐えて香りや色が変化しなかったからです。
これにより、中継地だった九州や瀬戸内まで南部諸伯の魅力が伝わりました。
【江戸時代前期】日本酒造りの根底が作られた
冬に日本酒を仕込む「寒造り」が
考案された
当時の日本酒造りは、ものによって味が統一されていなかったり、雑菌を殺せずにお酒が腐ってしまったりといった問題点がありました。
そこで、酒造は今までの経験を生かし、高品質の日本酒を造り続ける技術を磨きました。
そこで誕生したのが、日本酒造りの土台とも言える「寒造り三段仕込み(かんづくりさんだんじこみ)」です。
腐敗菌などの活動が活発ではない冬だけにお酒を仕込むことで、日本酒が腐ってしまうことを防ぎました。
また、寒造り三段仕込みでは、約1年前の冬からお酒を仕込み、春から秋にかけて熟成させるので、大量に出荷する年末に高品質の日本酒を届けることができるようになったのです。
下り酒が人気となった
消費都市として発展していた江戸でしたが、日本酒技術は進んでいませんでした。
そのため、豊臣秀吉からも愛されていた日本酒の聖地大阪や、寒造りを考案した兵庫県などの日本酒は、味や香りが良いということで、大変人気だったようです。
これらのお酒は「下り酒」と呼ばれ、特に伊丹(いたみ)や池田で造られた日本酒は高値で取引されました。
【江戸時代後期】日本酒が広まる
灘(なだ)の日本酒が
一躍ブームになる
江戸時代中期になると、日本酒の人気は伊丹や池田から、灘(なだ)へと変化していきます。
灘の日本酒が人気になった理由は水です。
灘で発見された「宮水」は、硬度が高くミネラルが豊富なので、お米の糖化と発酵を促進させる作用を持っています。
辛口のお酒は「灘の生一本」と称され、ブームになりました。
居酒屋文化が発達する
室町時代、京都では高利貸しと居酒屋を兼ねたお店がありました。
ただ、庶民が飲むことのできるお酒は限られており、「上等なお酒=上流階級のもの」といった形が取られていたのです。
しかし、江戸時代中期には、大衆でもお酒と食事を楽しむことができる居酒屋が誕生します。
店構えは屋台を少し大きくしただけのものでしたが、田楽やおでんなどをつまみにお酒を飲んでいたようです。
【明治時代】海外の知識を取り入れる
自由に日本酒が作れるようになる
お米で造られたお酒が「日本酒」と呼ばれ始めたのはこの頃です。
これは、「米・米こうじ・水」だけで造る日本酒に興味を持った外国の人が、自国のお酒と判別するときに「日本酒」と呼んだのが始まりですね。
江戸時代から続いていたお酒造りの免許制度は、明治時代に廃止されました。
日本酒造りは自由化され、免許料を払えば誰でも日本酒を造れるようになったのです。
日本酒造りを科学的に見直す
日本酒造り最大の問題は、お酒の腐敗でした。
室町時代に火入れをして殺菌する技術が開発されたり、江戸時代に寒造りが考案されていましたが、完全に腐敗を防げているわけではなかったのです。
明治時代になり、外国人醸造学者によって科学的に日本酒造りを見直すことになりました。
そこで、「山廃酛(やまはいもと)」「速醸酛(そくじょうもと)」などの現代も使われている技術が発表されたようです。
また、お酒の腐敗問題を解決するために、一升瓶が誕生したのもこの頃ですね。
消毒による抗菌が可能で、お酒を密閉できる一升瓶は菌の繁殖を防ぎました。
【昭和時代前半】原料不足から日本酒が新たな形へ
品質表示の原点が作られる
長引く不況や日中戦争が起こったことで、物資不足が深刻な問題となっていました。
これにより、お酒を金魚が泳げるほど薄められているような「金魚酒(きんぎょざけ)」が出回るようになったのです。
政府は金魚酒を取り締まるため、アルコール度数に応じて「上等酒」「中等酒」「並等酒」の3等級に分け、日本酒の販売価格を設定しました。
合わせて、香りの良し悪しなどの検査結果を表示するように、酒蔵に指示したのです。
これが、現在の品質表示の始まりですね。
添加アルコールの誕生
原料不足がさらに進む中、お米を節約して日本酒を生産するために、アルコールを添加する方法が開発されました。
1943年には政府がアルコール添加を認めたことで、全国的に造られるようになりましたが、醸造方法はまだ未完成だったため、当時は不安定な味になることも多かったようです。
【昭和時代中期】三増酒(さんぞうしゅ)の誕生
添加物は、アルコールだけではなく、ブドウ糖やクエン酸などを含んだ調味アルコールが加えられるようになり、より少ないお酒で生産することが可能になりました。
なんと、一升瓶に入っているお酒を、添加物を入れることで3本分に増やすことができたので、「三増酒(さんぞうしゅ)」と言われていたようです。
添加する調味アルコールにより、甘めにもすっきりにもなったというから驚きですね。
【昭和時代後期〜】多種多様な日本酒が出回る
戦時中に日本酒を「上等酒」「中等酒」「並等酒」に分ける制度が決められましたが、そもそもアルコール度数が評価の基準となるので、疑問を持つ人も少なくありませんでした。
酒蔵の反発を受けて、この制度は廃止され、日本酒の原料や造り方で分別される「特定名称酒」が制定されたのです。
2006年には、日本酒を造る際に、「米・米こうじ・水以外の副原料は50%まで」と決められ、三増酒は姿を消しました。
近年における日本酒は、お米の甘みが生かされた豊潤タイプ、発砲タイプ、精米歩合が低いすっきりタイプなど、多種多様な日本酒が出回っています。
隠れた酒どころ千葉の歴史に迫る!
1624年の江戸時代に、千葉県最初の酒蔵「吉崎酒造」が誕生しました。
また、「寺田本家」や「鍋店」など、千葉で人気の酒蔵も創業を開始したのです。
現在千葉県にある酒造の約半数が、江戸時代からの創業だというから驚きですね。
利根川や江戸川の近くに集まっていた酒造も、水路などが整備されたことで、銚子や佐原にも酒蔵が誕生することに。
明治時代には200以上の酒蔵があった千葉ですが、時代の厳しい流れの中で数が減少してきています。
美味しい水とお米の名産地である千葉県は、まさに隠れた酒どころです。
ぜひ、長い歴史を持つ千葉の日本酒を堪能してみてください!
歴史を知れば日本酒はもっと楽しめる!
元々、家でも造られてきた日本酒ですが、現代出回っているような高クオリティーのお酒の形になるまでには、様々な研究が重ねられてきました。
長い年月をかけて今のような日本酒になったかと思うと、歴史の重みやロマンを感じますよね。
今夜は、昔の日本に想いを馳せながら、日本酒を堪能してみてはいかがでしょうか。
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